http://d.hatena.ne.jp/serohan/20070808#1186550452

あ。言っちゃいましたか・笑。
がんばってください。

私もちょっと疲れた状態で夜バイト(家庭教)に入ると、坊の勉強部屋にあるテレビとかプレステとかDSとか叩きつけたくなったりすることもま、たまーに。まあ、実際にはなんもしませんけどね。

うちの親父なら叩き壊してるんだろうなあとか思いながら・笑。

業を煮やした両親が(というかだいたい両親の一方だけが)「私立には行かせんぞ」とのたまったりしても、実際に公立(田舎では公立がよい学校とされる)には行けないので、中卒や中浪を背負えない坊はやる気を起すはずもありませぬ。おそらく坊はゲームをしていても漫画を読んでいても生き生きと仮想/現実を楽しんではおりませぬ。坊はびくびくしています。現実と仮想の境界を明確に引こうとする引力に対してふるえたりいらいらしたりしております。

「ところでさあ、ねえ先生、聞きたいんだけどさあ」を連発するけど、決して勉強のことは質問しない坊。

坊、クールガイ。

そういう面もあるなあ

http://d.hatena.ne.jp/leibniz0/20070728/p3

確かになあ。
社会人から、法曹に行くのはなかなかかもなあ、リッチじゃないと。すぐにロースクールに2年間行くというのはとてもリスキーというか、生活できない。ロースクール入学のための勉強と仕事を平行して、お金が貯まるまで数年、それから、ロースクールに入れたとしても、2年間は夜アルバイトで食いつなぎつつ生活しないといけないということになる。もし、司法試験だけなら、仕事しながら勉強する意欲も湧くんだろうけどね。試験は仕事を辞めなくても受けにいけるから、合格したら気合でやめることができる(できるのか?・笑)。遠い少ないロースクール行くために仕事も辞めないといけないとなるとうぐ。どうしても二度手間なような気がしてしまうことも無きにしも非ず。

それは置いておくとして、法学部ってなんだったんだろう。一番に改革すべきはどこだったのだろうか。

司法制度改革審議会 第15回議事概要から引用
http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai15/15gaiyou.html

○ 法曹になる者の基礎的教養不足が問題点として指摘されているが、この問題は大学に至るまでの教育プロセスの問題ではないか。また、現在ほとんどの大学で教養課程を廃止しつつあり、この点に問題があるのではないか。(応答:基礎的教養不足の根底には中等教育からの問題があるのはそのとおりであり、同時に大学にも責任があると考えている。一種の突破口として法科大学院を導入し上から変えていくという選択肢もあるのではないか。)

○ 今の学生は法律についての素養・理解が欠けており、法科大学院はこれを補った上で更にプラスアルファを考えようというものである。法科大学院で全てができる訳ではなく、法科大学院という形以外にも方法はあろうが、法学部教育や司法試験など現行制度上の問題を解決するためには、法曹の入り口である大学の問題から議論する必要があり、これらの問題を総合的に解決する法科大学院の構想につながっていくと思う。

○ 現在の法曹養成の問題は、司法試験が難しくなりすぎていること、大学教育が司法試験に対応してこなかったことにあるが、法科大学院構想が出てきたのは、現在の司法試験制度及び法学部教育を変えても、質の高い法曹を養成するには不十分であるという認識がある。

○ 法科大学院を作るとするなら、地域性にも配慮し、各地にバランスよく設置する必要があるのではないか。

○ 法科大学院の修了を司法試験の受験資格とすることは、経済的に余裕がない人が受験できなくなるなど機会の均等を奪うことになるのではないか。

○ 現行制度の下でも機会均等が保障されているのか疑問である。奨学金法科大学院の夜間開講、法科大学院に行く余裕のない人について受験資格付与の特別検定試験などの整備を検討する必要があろう。

○ 犯罪者を含めその人の立場に立ち、相手の気持ちを理解できるような法曹を育てる必要があるが、現在の法学部教育ではそのような教育をする余裕がない。

 以上のような意見交換の結果、
 ・現在の法学部教育は、基礎的教養の教育の場面でも、法律専門知識の教育の場面でも不十分であること、
 ・法科大学院構想は、法学部教育との関係、教育内容等につき検討すべき課題はあるが、これらの問題を解決する一つの有力な方策であること
について認識の一致をみた。

法学部はそのまま。。。

つぶやき

なんかブログに書くことを予定するとよさげなことばかり書くことになる。実際よさげなことも多いが、なんだよおと思うこともある。

大学でもっと勉強しておけばよかったとはあまり思わなくなった。そもそも大学のときに勉強に打ち込んでいなかったからだろうと思う。それに、今学ぶことのほうがなんか面白い。良い意味と悪い意味を両方含んでいるinterestingなことが多い。

契約書。。。法学部で解釈学をかじった後に、実際の社会で、契約書を作成したり、雛形を状況に合うように練ったりしていると、いやらしい契約書を作ろうとしている自分をすぐに発見することができる。どちらか一方の立場に立った上で契約書を見たり解釈したり作成したりということは、なかなか法学部では経験できない。それに自分の世界観を少しでもそこに反映させようとするなら、なんかどっと疲れが出るような感じだ。第三者的立場から見ているのとは明らかな違いがあるし、緊張する。

理事長様、理事様。。。田舎の組織、とくに組合では独裁者が現れると難しい場合が多い。例えば、中小企業の協働組合においてはたいてい定款は古いまま。定足数規定も古いまま。だから通常の決議でも、総組合員の過半数の組合員が出席し出席組合員の過半数の議決が必要になってくることが多い。そして数百人を越えるくらいの組織になると、とても定足数を満たせない。だから法や定款に照らせば瑕疵ある決議が常になされているということになる。

会社と異なり、組合の理事長や理事というのは世話人のような位置づけであり、また田舎の場合、日常における相互監視が強く働いていて、皆が知っている世話好きな人が選ばれるから、それほど問題はおこらなかったのだろう。それに、理事や理事長になってからも日常生活レベルにおいて相互監視による抑制が働いており、そう滅茶苦茶はできない。

組合レベルのネットワークもあった。町や村では、細かく部落ごとに支部に分けて保険料納付等手続きのためそれぞれ小さな事務所を置いて連絡の拠点としていた。組合員の加入・脱退により組織の中の人が少しずつ入れ替わっていっても、自分のちかくに住んでいる組合員のことくらいは最低限把握していたし、支部を世話している組合員は他の支部世話人と本部で会うことで情報を共有していた。

しかし、少しずつ状況は変わってきたようだ。都市と同様に田舎でも市町村合併があった。多くの村と町が市に編入された。合併後に、市を単位とした組合になり組織が数百人規模と大きくなる。町や村にあった小さな各支部は廃止され、事務所は一本化される。そういう状況で、組合財産を自己に有利な業者との取引に使用したり、役員報酬を得続けるメリットのみを固持するような理事長が彗星のように現れると組織の自己修復はなかなか難しいと感じる。そのような理事長が、法や(古いままの)定款を、自己否定に等しいようなやり方で利用すると非常にややこしくなる。

役員の半数を抑えられていると機動的に理事会で平理事にすることも難しく、また、古い定款では、役員の解任(または改選)請求について規定をおいていないことが多い。そうすると、組合の種類によって適用される法をみるわけだが、特別決議並みの要件を定款次第で軽減できるというような規定や総組合員の何分の一の署名をなんたらして総会で〜というよう規定があったりする。まず、新たに解任規定を設けたり、要件を緩和しようとしても、定款が古いので、定款変更の要件が非常に厳しくて変更自体が困難。知らない人もいるし知っている人もいるしという状況での署名もなかなか困難だし、定款・法令違反という理由が要る場合があるので、理事長が自己の行為の正当性を強く主張している場合は一般組合員はしり込みしそう。

そして、穏便に話し合いでというそれまでの町や村で通用したやり方の抑制力はそれ程働かず、その不透明性さを逆に指摘されたりする。そしてあろうことか、今までの議会の決議の不当性まで主張したりという段階になると、あの人は変わった人だという諦めに似た雰囲気が流れ出す。この感覚はあれだ。しかし、そのまま放置ということにはならないところがなかなか粘り強い。そしてなんとか自己修復してしまう。どう表現したらよいかわからないが、日常生活のネットワークからはずすというような強力な懲罰的なやり方はほとんど機能しなくなっていても、別の面の地力のネットワークはまだかなり生きている。中世ヨーロッパの紛争処理のやり方の一つに似ているところがある。あんまり詳しく書けない。ただ、定款は古いまま。

もちろん一般論ですよ。

今でも夜は中学生に接する機会がある。家庭においても学校においても、意味を求めて振舞うよう期待される環境の中でも、自発的に密度を持続している中学生は一部確かにいる。ただ、一方で、意味を通じて密度を掴み取るわけでもなく、ただ密度に退避せざるを得ない自らに、つまり、未だ意味に受動的に拘束され続けるしかない自らに、つまり、家庭や学校の線上ではなく並行線上に生きざるを得ない自らに対していらだっている子もいる。こういう子は学校にも家庭にも非常に居辛かったりする。そういう子に対して、周囲には指針を示す者、彼らの話を聞くものはほとんどいない。私もはっきり言ってよくわからん。そういう子に対しては、ねじれの位置を見つけて生きろとか言いたくなるときもあるけど、それを言ったらおしめえよとも思ったりする。その子が属する家庭の状況や学校の状況を見てしまうと、ああ〜すげえやばいスパイラルがおこってて、家庭・学校・本人、三者とも隠しををしないと回っていかないというそんな状況だよこれは。ああーなんだよ〜、なんで夜に、まだかてきょせなあかんのよ。で、なんで俺に感謝するんよ。なんもしてないよ。相手の話を聞いて、相手の動くのを待っている、動いたら自分も動く。ただそれだけ。こういう状況ではそれくらいしかできんなあ。それに、素でテストで一桁の点数を取れる子を私は理解しようもないからな。自分が先に動くと自分もスパイラルにハマるような気がするんよね。卑怯だなあ俺。

2007/06/22

千の風に乗ってを一番ブースで熱唱。カラオケはダム。スピーカーはパイオニアで、エアコンのリモコン表示温度は25度だった。部屋の明るさは5段階のうちの3段階。白い三人掛けソファーが部屋の3隅に設置されていた。黒い長方形のテーブルが中央に一つ。私は神社エールを飲みつつ、お茶漬けとお好み焼きを食べた。カラオケ画面は白い文字がリズムに乗って水色の文字に変色していくタイプ。

なんとなく回ってくる順番。聞くもよし聞かぬもよし、歌うもよし歌わぬもよし、話すもよし話さぬもよし、食べるもよし、食べぬもよし。寝るもよし、寝ぬもよし。ああ、私の場合は一曲熱唱したら後はひたすら食べるというのがゴールデンパターンということで。

カラオケボックスやさんは、なにやさんに一番似ていると思う?

2007/06/24

ある程度見たり、触ったり、食べたり、動かしたりした過去の経験が少しばかり溜まってくると、蓄積された感覚によって特に意識しなくても自然に行動に移せるのはいい。だけど、そこからちょっと楽をしようとすると、メタメタにして積み上げた思考の粕をかき混ぜたりすることに没頭していたりする。その時やろうと思えば、目の前のものを見たり、触ったり、食べたり、動かしたりできたのに、なんでさっき、ちゃんと見たり触ったりしてこなかったんだろうとふと思ったときなんか嫌になる。

ロー適の読解第一問にラッセルの幸福論が出てたみたいですね。

2007/07/06

都会を少しでも離れる機会があるのなら、畑をのぞいてみると楽しいかもしれない。

作業しているおじさんがいれば幸運だ。話しかけてみるとよい。「あれは何をつくっていらっしゃるんですか?」などと話しかけて盛り上がってくれば、去り際に胡瓜を貰えるかもしれない・笑。今は、胡瓜ががんがんなってる。激しすぎるくらいの勢いだ。朝とって夕方とっても既に規格外の胡瓜がわんさか余ったりする。尻の部分が白くなった、でっかい胡瓜をたくさんもらえるかもしれないよ。それがめちゃくちゃうまいんだよ。

茄子もがんがんでき始めている。おもしろいのは西瓜。花の付け根辺りからぷくっと丸く膨れてくるのはかなりリアルだ。店にはもう西瓜はかなり出ている。あの西瓜のお尻の部分には黄色い花がついてたんだよなと思って、つい西瓜のお尻の部分を愛撫してしまったりする。アイムアッシェイムドゥトゥーアドミット俺変態。買わないのだけどね。

June 7, 2007

「この件は、あなたにお任せします。思うとおりにやってください。」と他人に言われることは、とても気持ちがいいものだと思った。

一方で、家族に同じ事を言われても、それほど嬉しくはないだろうとも思う。仕事とか対外関係の相手方に言われるとこれほど嬉しいのはなぜだろうか。

家族に言われた場合、「そうは言ってもなあ〜」とか、妙な内語が先走る。そんでもって本当に思う通りにはやらない。

でも仕事の相手方にそう言われると、一気にパーッと視界が開けて、そして、燃える。そんでもって本当に思うとおりにやってしまう。

田んぼは、いまちょうど水が張っている。さざなみが揺れ、きらきら光っている。白鷺が二歩、三歩、柔らかい足取り。ちょっと立ち止まって、こっちをじっと見てる。信号待ちの車の窓から、思わず笑った。
夜は、蛙の声が涼しい。

June 8, 2007

昨日、なぜだろうか、と問いつつ答えを探さなかったのは面倒だったから。でも、ちょっとだけ、寝る前に少し考えようか。

ダブルバインド(表面的な言語的な意味と状況的文脈的な意味の齟齬を感じ取って、身動きできなくなるような)に満ちた家族的コミュニケーションにさらされてきた結果、つい、そういう内語が先走り、自己の行動決定に対して抑制的に働くため、家族に言われても嬉しくないのだとか、そいうことではないのだと思う。少なくとも私の場合は、そうではないような気がする。

私は家族との関係では結構満足している(まあ、今までブログとかでほざいてきた文句というのは、頭でこねくり回した自己弁護が大半であって、本音はかなり満足なんだろうなと素で、おいおい)。但し、私の世界を家族に反映させようとは思わない。接点を探そうともしていない。否定的でも肯定的でもなくなんというか自然な感じでそうしている。私が怠慢なのかもしれないが、ごく社会的な関係の共有で満足している。家族同士の社会的役割分担は、嫌いではない、というか、むしろ好きなほうだ。そんなわけで、家族から、「思うとおりに〜」と言われると、社会的に処理しようとしてしまう。まあ、だから、これはある意味、思うとおりにやってしまう、ということに入るのかもしれないが、そんなにわくわくしたりはしない。嬉しくないというか、まあ、普通かな。あ、ここでの、社会的処理というのは、家族を協同組合みたいに扱うという感じ。法の規定と定款、両方参照しつつ。

これが対外的な仕事(他人)との関係となるとどうなるのか。私が体験する(観察する)社会が一気に拡大したような気分になる。高揚する。「思うとおりに〜」といわれた一瞬のうちに、ここぞとばかりに、それまで社会と無関係のまま保留しておいた私の世界を、半ば無意識に社会にくっつけてしまったんだろう。くっつけても私の世界は決して社会そのものにはならないのだろうけど、接続の体験はがっつり残る。だからぱーっと拡がった気がして快感だったんだろうか。接続のための見えない条件がなんかありそうな気がするけど、、、でも、例えば、「あいつがこう言ってくれたら、ぱーっと拡がるかな」ということは予め想像しようもないし、どうしようもなさそう。思ったことというか、こうしようと思っていることを、「いまやってるよ」っていつも言えるような状態に置いておくことくらいの環境整備ぐらいしか条件は思い浮かばんのだけど。やっぱり見えない条件は見えん。ん、想像できる?私はちょっと無理。山とか海とか鳥とか田んぼとかそういうのだと得意なんだけど。

君にとって、家族は安心ベース、家族の外は不安ベース、ただそれだけの話だろ、と言われてしまうと、まあ、そうかもしれないかもとも思う。よくわからくなってきた。だから、こういうのは面倒くさい。眠くなってきた。

夜、雷が凄かった。停電したので、ベランダへ出て、雷を暫らく眺めていた。真横に走る稲光というのを初めて見た。光も音も乱舞していたけれど、蛙の声のテンションは昨日の夜とさほど変化していないようだ。なんてマイペースなんだろ。おまえらも。

お詫び

東京でKDDIADSLだったんですけど、引越しのときに契約解除したら、あっちのブログ(ラブログ)までふっとんでしまいました。サービスの一部を構成していたということをまったく忘却しておりました。まめに保存しておけばよかったと思います。予告なくログを消してしまい、コメントを下さった方、読んでくださった方に申し訳なく思っています。どうもすいませんでした。

似たような立ち止まりポイントがやってくるとき
似たような選択を迫られることがあって
なんとなく前と同じような惰性的な選択をしようとしていることに気づけたとき

その度に少しずつ自由になれた気がする

惰性的なというのは、自分の場合、「よくねえなあと思ってはいるが楽だなあとも思っていることをそのまま継続できる方向にひよること」。その中の一つとしては、例えば「自分の判断で決められる問題であるのに、自分の判断を留保することで、対決予定であった壁にリスクを擦り付けて、これを自己の保護者という定義に反転して摩擦回避しようとすること」なんかがそうだなあ。

あ、そろそろ出発せんとあかん。

では〜