久しぶりの東京。2週間くらい離れただけだったけど激動した。

東京に荷物を半分置いたままにしていたのだけど、当面その必要はなくなったので引き払う。

感想

・とてもスローだ。*1手続きや連絡、作業がスロー。だけど、東京並みに効率化してしまうと(皆が頑張りすぎると)失業率がすごくなりそうでなんか怖い。独特の雰囲気流れているなあ。

・口頭での長いコミュニケーションに付き合うことの重要性。まかせろ。だけど関係ない話が長すぎるよ。話のオチがないっす。それとちょっとルールが違う。
例えば、ついこの間、私と友人が田舎の普通のレストランに入ったときの話。たまたまその友人の知り合いがそこで働いていた。友人と知り合い二人はレストランを出る間際に10数分もお話していた。客は大勢来ている。仕事の邪魔になるといけないから「そろそろ行こうか」と促したところ、その友人はとても気分を害してしまった。その納得いかない表情を見たときふと思い出した。そうだった、そう。こういう「久しぶりね〜」というコミュニケーションが少々長いことに対して、客も店もかなり寛容なんだよ、ここらへんは。忘れてたよ。俺のほうがやべかったんだよな。

・とくに心身に問題ない場合、心を動かすか身体を動かすかしないと巡り合わないということ。いつまでたっても自由さを感じられないということ。私がブルーになったり動きたくないときは決まって理屈武装を始めるから、そういうときに、素で、「動こうぜ」と言ってくれる人がとても貴重だと感じた。そいうときに分けもわからず、しかし、動いてみると、思いもよらない展開が訪れたりする。そのタイミングでしかありえないような出会い、そして、自分を見つけてくれる人、見出してくれる人が現れたりする。一日でガラッととんとん拍子に面白い方向へ進んでいく。そういう経験を一つした。動いてみると、予想したとはまったく変なところからもっとすっきりいくような方向へ進んでくれたりして、そういうとき、「俺すげー」とか便所の中で一人叫んだりして。

かなりすっきりしている。

*1:いや私もスローな部類だけど、それよりももっとスローだ。

卒業式

卒業式はいいもんだ。こういう儀式というのは退屈な部分もあるけど冷静になれる。頭冷やすいい機会だと思った。過去一定期間のことや現在の心境をゆっくり見つめることができた。

よかった。

式服、式帽で写真も撮っておいた。似合わんぜよw

オケの人お疲れ様でした。素敵な音楽をありがとう。
ちょっと半泣きになりそうだったよ。
心を揺さぶられた。

私はなんか焦って自分を貶めよう貶めようとしていたみたいだ。
儀式ってのは、無茶をなだめてくれるような、そういう副次的な効果もありそうだよ。*1

<お知らせ>
明日からしばらく日記を更新できないと思います。
コメント、トラックバックは受け付けない設定にします。*2

コメントくださった方、果て部などで微妙な関わりを持った方、読んでくださった方どうもありがとうございました。

*1:儀式ってのは、無茶を後押ししてくれるような、そういう副次的効果もありそうだよ、ってどっちでもいえるぜおんぼさつう〜

*2:ん?トラックバック禁止は無理なのか、なるほど

おみくじ

書き忘れたんですが、出雲大社のおみくじについて。

祈祷が終わった後に、私と母はおみくじ引きました。
私のは、「叶う、よい、よい、なおる、よい、見つかる、大いに利あり、南よい、よい」という、なんというか、もうグッドグッドの連発のような内容でした。出雲大社のおみくじにはどういうわけか、大吉とか凶とかは書かれていないんです。だから、私は「ああ、出雲大社のおみくじはみんないいことしか書かないんだな」と思って、側にある大きな松の木にくくりつけました。それから、母のほうを見ると、なんだか納得しがたいような顔をしながらおみくじとにらめっこしているのです。母のおみくじを覗いてみると、私とはまるで正反対で、移転のみグッドで、そのほかはすべて撃沈なんです。「え〜これはひどいやろ」と私が言うと、「やっぱり書いてないけど大吉とか凶とかあるんだよ。しゅーのおみくじは大吉だから持って帰ったほうがいいよ」と母に言われたので、また松の枝からもぞもぞと自分のおみくじを解いてきました(いいのか?)。今も机の上に置いてあります。

開放

法学部から法科大学院というのが今の王道?らしいのだけど自分にはその能力がないと思ったし、現状で法学徒を続けるのは、なんだかわからないが個人的にヤバいと感じた。

これは(かなり?)お約束だと思うのですが、法学徒(元法学徒も)に一般常識や教養を求めてはいけません。

傷つくよ、私。
いやまじで(~_~)

どっちもどっちなんだろうけど

例えば、テレビで犯罪に関する報道を見ている二人(A、B)がいるとする。
1.「ひどいよね。なんであんなことするんか全然理解できん。」
とAがBに暗に同意を求めるようなとき。

2.「ひどいよね。人間としてゆるせん。ばかじゃないのか。」
とAがBに暗に同意を求めるようなとき。

1と2の場合にBが次のように答えたとする。

「いや、まだ犯罪かどうか全然わからんやん。別の事実が出てくるかもしれんし。裁判まだやし。環境によっては、俺でもやるかもしれない。やってなかっても犯罪者にはなるかもしれない。」

Bが素でこういう風に答えると、犯罪を全面的に肯定していると看做されることがある。だから、Bは、とりあえずは、反応を控えることになる。

1と2と分ける意味はあるのか?
Bは1よりも2のほうがまだ話す時節を感じたりする。どちらかと対話しなくてはならないというなら、2のほうと対話したいと思っている。
分けるのはそれだけの理由。

Bは私ということで。また、場面が異なればAが私ということで。私がAのときはもちろん1も2もある。

せろはんさんへ

すいません。調査票(全国的な学力調査・質問紙調査)の内容をあまり見ずにブクマしてました。

夜中、やってみました。

なんだか、自分がずんずんと情けなくなってしまいました。これは単に過去の自分に同情しているだけです。そうなんです。

旅行とか、インターネットとか、ゲームとか、塾とか、そういうのが、うちにはなかったもんで。

http://blogs.dion.ne.jp/shoostar/archives/3428041.html
http://blogs.dion.ne.jp/shoostar/archives/3466360.html

上の記事のような状態の中学生の私がもしこのような質問用紙を書き込んでいるときのことを今の視点で想像すると、なんか。。。。きつい。親もそう思うのかもしれないとも思います。お互い情けなくなるしかないです。

いや、もしかしたら、私は小ざかしかったので、そういう調査を切っ掛けに平均的家庭はこうだとか言って、親に無理難題をふっかけていたかもしれませんし、自分の分担の家事をサボる理屈として利用したかもしれません。それはそれで、自分の家族をもっと情けない状態にすることだと気づかずに。その調査にどういう反応をするのかは、もう中学生でない私にとってはわからないのだけども。

母が頑張っている姿(よく今生きていると思うくらい働いた、いや、働かせてきた)も見ているし、弟や妹が我慢しているのも知っている。そういう状況であっても、いかに、自分の家庭が劣っているかと思ってしまう。…劣ってはいない、断じてそうではない…でもそう受け取ってしまう。だから、お互い情けなくなるしかない。家族に別に悪い奴はいないんだから、ぶちまける相手がいない。(でも、祖父に対しては憎たらしいと思っていたかもしれない)

貧乏であることは、中学校くらいになると当然に自覚している。他の家庭とは違うことももちろんわかっている。どうしようもないってことくらい頭ではわかってるさ。そんな調査なんかされなくても。

それを*1個人それぞれの認識状況を(太字は追記)いつ、それなりに自分の中で受け入れることができるようになるのか納得できるようになるのか、そしてある程度違和感無く振舞えるようになるのか、時期というものがある。それは子どもそれぞれだと思う。

自己の家庭の状況を隠しておきたい時期もあろうし、運よく自分をしっかり見てくれる友人に出会えたとき自然に、卑屈にならず、振舞うことができるようになるかもしれない。この過程というのは、かなり繊細な部分だと思う。

学校で一律に全国的に調査するからこそ研究や政策立案により役立つ。しかし他方で、全国一律であるが故に、それぞれの子どもが家族・友人・学校・社会とに折り合いつけようともがく繊細な過程(時期)に有無を言わせず干渉してくるという面もある。

だから、せろはんさんが、特に神経質すぎるわけではないと思う。神経質すぎて当然だろうと思う。当然とか言ってるが、それは実際に自分がプリントアウトして調査にしるしを付けはじめて、いろいろなことが思い出されたからであって、あの記事をブクマしたときは当然とは思っていなかった。すいません。

じゃあお前は反対なのかと聞かれると、悩む。
ただ、もし、自分が当時のような中学生であると仮定して、質問内容を事前に知っていた場合、学校で先生に書けといわれたら書くが、情けない(自分が)と思うだろうな、とは思う。

*1:ここからは一般論に入ってますた

帰りました

空港に着いたらすぐバスで出雲大社へ向かう。
バスの窓から呑気に外を眺めると、初めてなら誰でも*1まず驚くだろうと思うんだけど、茶色っぽい屋根瓦。出雲市に入る前まではだいたい私が見ていた範囲で、5割かそれ以上の割合で瓦の色が明るい茶色だった。うちの田舎ではほとんどお目にかかったことはない。さらに不思議だったのは、比較的新しく建てられた家でもこの瓦が採用されているということ。というわけで、出雲大社まで家と瓦ばっかり見てて全然飽きなかった。あれは石州瓦というやつであってるのだろうか。

http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/ad/bj2005/keikan/case1.shtml

地元の人に聞きたかったんだけど、何かのシンボルかもしれないし、田舎では聞いてはいけないこともいろいろあったりするので、そういう事項に該当する場合は周囲をもっと観察してから聞くほうがよいのかもしれないと、そのときは思った。こういうときパソコン持っていってたらホテルで調べられるのにとか思った。今回はもちろん持参していなかった。で、結局今しがたちょっとぐぐってしまった。

出雲大社に到着。イメージとは随分違う。平成の大遷宮があったそうな。
もちろん祈祷してもらった。うちらは個人だっただけど、団体さんと一緒になってしまい、缶詰状態で祈祷してもらうことになった。太鼓のすぐ隣だったんで振動が凄かった。ただ、住所氏名願を読み上げるときに、団体さんは代表者だけであとは「その他38名の〜」とかって省略されるので時間としてはむしろ短くなった感がある。それから、参道の途中で、おかんの写真をたくさん撮った。自分のは一枚だけ撮った。

その後ホテルに戻ってご飯食べて温泉に入ってうは〜睡眠。

翌日。小泉八雲記念館に行く。先生曰く「日本の最上の美的産物は、象牙細工でもなく、青銅製品でもなく、陶器でもなく、日本刀でもなく、驚くべき金属製品や漆器でもなくて、日本の婦人である。」(封建制の完成より)とか展示室のプレートの説明書きに載ってただけだけど。あと、欧米には栄養で既に負けてるんだよ。栄養とって独創力高めなさいとか(これは教師時代の日誌だったかな)。だんだんいい加減になってきたな。

それと、八雲が学校の先生になるときに県知事と交わした契約書(当時でいうと条約書)がおもしろかった。とても簡潔なのだが、過不足なく出来上がっていて非常に美しさを感じた(手書きのかくかくしたカタカナと漢字で構成されている見た目の美しさも含めてだけど)。原本はガラス越しに在って、見開きの2ページ分しか見られない。手でめくれないのが悔しい。ああいうのを捲るのが快感だといっていた先生がいたけどちょっとだけほんのちょっとだけわかるような気がした。だから、残りの条文はコピーしてあるやつを読んだ。

最初のほうから順に読んでいくと、対価的な関係に立つ教授義務と報酬支払い義務、不履行の場合の解除要件が異常に簡潔に書かれていて、一番最後の条文に何が書いてあるのかというと、「宗教に対する得失利害に関することを論ずべからず」。いやメモとってないんで原文どおりではないかもしれないが、そういう趣旨のこと。

現代でもそうだとは思うけど、場の条件次第では、契約書ってのはこうも簡潔に書けるものなんだなということ。それから、宗教に対する最後の一条は、なんかもわっと来たんだけど、どう解釈していいかすら帰ってきた今でもよくわからない状態である。それまでの条項に教授内容の制限は一切出てきていないし、最後に非常に簡潔にぽつーんとくるこのタイミグがよくわからん。こういうスタイルがその頃は一般的だったのか?

そのあともいろいろとうろうろしたんですが。。。

もわっと眠たくなってきたんでとりあえずここまでということで。

*1:そうとは限らんな。見ているとこが全然違う場合もある。