おらおら
今まで必死で頑張ったとか、死ぬほどやったということは一つも無い。何かに興味を持って真剣に一定期間打ち込んだということも無い。なんとなく中途半端でいやだ。でも、いつも中途半端になってしまう。とても怠惰なやつだし、優しさのかけらもない。他人の感情にもそれほど反応しないような、無関心の塊。最悪な奴だ。ばかだ、かすだ。終わってる。死んでしまえ。
追記
もともとのメモ張に書いてあった原文
人生終わってるんじゃないだろうか。*1
私はけっこう終わってると思う。
今まで必死で頑張ったとか、死ぬほどやったということは一つも無い。何かに興味を持って真剣に一定期間打ち込んだということも無い。なんとなく中途半端でいやだ。でも、いつも中途半端になってしまう。とても怠惰なやつだし、優しさのかけらもない。他人の感情にもそれほど反応しないような、無関心の塊。最悪な奴だ。ばかだ、かすだ。終わってる。死んでしまえ。*2すっきりした。終わってるけど終わってるなりにやっていくしかないな。*3
↑あはははは、誰だよ、このバカは!
俺だよ。
削除線引いた意味ねーよ。
学習効果:うぷする前に消すよりも書いてから線引くほうがなんか精神衛生上グッドな感じ。なんか気持ちよいぞこれは。今度から意味なく線を引こう。
■
阪神大震災のとき、倒壊した家屋の下敷きになった人のうめき声(何を言っているかわからないけど声)を頼りに、瓦礫を取り除いて必死で助けようとしているおじさん、体育館の毛布にくるまってふて寝しているお兄さん、毛布や水をたくさん独り占めしてあとで親切にみんなに配っているおばさん、非日常にいきなり放り込まれてわくわくしてお手伝いを楽しむ自分。継続的な生活を営んでいたわけではなくて、短期間そこにいただけだから、体験談を語れるような資格も無いのだけど。
「非日常」と簡単に書いてしまったけど、現在の私の視点で考えると、「些細な行為であっても公(共)的な意味合いを帯びやすく相互助け合いはやりやすいが、一方で、それゆえに、その意味合いに衝突するような私的な行為がとても浮き彫りになってしまうような空間」という感じ。
些細な行為、ちょっとした打ち解けたコミュニケーションであっても、自然と協力的公共的な意味合いを持ってくれるので、接触障壁は低くなっているのかも。見知らぬ人との助け合いはとてもやりやすい。私は、当時は大人(親ではなくて他人の大人)が喜んでくれるのがただ嬉しかっただけ。身体の柔軟性を生かして、いろんなもん(お位牌なんかも)を引っ張り出した。
一方で、行為の代替可能性が一定程度に限定されている(禁止ではない)という面も感じる。行為の期待可能性がある以上、自分で行為しないとだめという道義性の強い物差し。時間とともに徐々に薄れていくのだけども。この物差しのリアル感と接触障壁の低さゆえに、私的な行為が浮き彫りになるようにも。
と後からこじつけてみても、やっぱ、どんなときでも凄い人は凄いなあ、ということだけなのかもしれない。「あの人は普段から偉い人やけど、ほんまに偉い人や」っておばあちゃんがあのとき感心してた人、やっぱ偉い人やったんやないかなあ。
かるちゃーしょっく
小、中、高、大と私立には縁がなかったんで、逆に私立の雰囲気ってのに興味があったりします。で、東大には私立一貫系の人が結構いるんで、「どんな感じ?どんな感じ?」とよく質問攻めしてたんですが、なんかみんな、のほほーんとしていて「普通だよ」とくらいしか答えてくれないんですよね。そりゃそうだなあ、自分の居場所は普通に思えるもんなあと。
でもですね、入学してすぐに、体育系の必修単位で、他のクラスと合一で授業を受けるときに、大学入ったばかりの全然知らない人の振る舞いを見る機会ができるわけですが、地方公立出身者はなんとなくわかったりするもんです。なんというか説明しづらいとこなんですけど、自己表現が不自然なんですw。私もですけどねw。必死さが伝わってくるw。それをお互いひしひしと感じながら、やだなあwみたいな。
あ、でも、私立系の人は結構寛容なようにも思いましたよ。田舎もんの私とかよりも。
それは急に押し寄せてきた
私はどちらかというと数年前まで、自分の感情をあまりにも悪者扱いしてきたような気がする。説明しづらいのだが、これは意識的に感情を抑えるということではなくて、かなり無意識に近いが全くの無意識でもないようにも思う。だから、なかなか気づくことができなかった。
「どうしてあの人は、あんなことくらいで感情的になるんだろう、よくわからんわ。」ということばかりだったし、そう思うことに対して自分自身、特に問題ないと思っていた。でも、非常に自覚しにくいことなんだけど(今でもきちんと自覚できているとは思えないがなんとなく)、良いか悪いかではなしに、これは単なる中立的無関心ということでは全然ないのだと思った。そして、無言の不快を振りまいていたということも。どうしてそういうことが少しでもわかったのか。ある身近な人が死んでしまった後に、わかった。私はその人に対して無関心ではなかったということがはっきりわかった。その人が死んでから、半開きの口元を見ながら、やっと感情がどろどろと噴出してきた。
ブロゴスフィアでの感情表現についてはかなり昔の感想記事があるけど、あんまり変わってない。
http://blogs.dion.ne.jp/shoostar/archives/3939183.html
いやー、すっかり春の陽気ですね、ぽかぽかあんヽ(^o^)丿
きてます
親戚のおばさんが家庭のことで悩みがあるということで神様に観てもらうことになった。私は暇そうにしていたので一緒に連れて行かれた。
ちょっと大き目の普通の家の中に入ると、応接間が待合室のようになっていてたくさんの相談者が待っていた。どの病院いっても治らなかった病気の息子さんがいる人とか、家庭内不和に悩む人とか。和やかな感じで「どうしたんですか?」とか話しかけてくる。気の会う人同士はその場でいろいろと情報交換している。「あそこの病院で治りましたよ」とか「いい先生がいますよ」とか。親密度でいうと、「神様に観てもらう待合室」≧「医者に観てもらう待合室」≧「空港搭乗口待合室」みたいな。
「あんたも観てもらいなさい」とおばさんが言ったけど「俺は何も無いからいいよ」と私は答えた。本当は、怖いだけなんだけど。本当に見えているかどうかとかは全然どっちでもいいのだけど、嘘でも真でも、どっちにしたって、なんか怖い。よくみんな、大丈夫だよなあ(おばさん、あんたすげーよ)と思ったのだけど、私自身があまりに悩みがなさすぎるからだろうとも思った。「なんか怖い」というのは別に宗教色があればなんでも怖いというものではなく、なんといったらよいのかなあ、説明せずに「なんか怖い」とかいうと語弊があることはわかっているのだけど、なんともわからんのだなあ。これが。