阪神大震災のとき、倒壊した家屋の下敷きになった人のうめき声(何を言っているかわからないけど声)を頼りに、瓦礫を取り除いて必死で助けようとしているおじさん、体育館の毛布にくるまってふて寝しているお兄さん、毛布や水をたくさん独り占めしてあとで親切にみんなに配っているおばさん、非日常にいきなり放り込まれてわくわくしてお手伝いを楽しむ自分。継続的な生活を営んでいたわけではなくて、短期間そこにいただけだから、体験談を語れるような資格も無いのだけど。

「非日常」と簡単に書いてしまったけど、現在の私の視点で考えると、「些細な行為であっても公(共)的な意味合いを帯びやすく相互助け合いはやりやすいが、一方で、それゆえに、その意味合いに衝突するような私的な行為がとても浮き彫りになってしまうような空間」という感じ。

些細な行為、ちょっとした打ち解けたコミュニケーションであっても、自然と協力的公共的な意味合いを持ってくれるので、接触障壁は低くなっているのかも。見知らぬ人との助け合いはとてもやりやすい。私は、当時は大人(親ではなくて他人の大人)が喜んでくれるのがただ嬉しかっただけ。身体の柔軟性を生かして、いろんなもん(お位牌なんかも)を引っ張り出した。

一方で、行為の代替可能性が一定程度に限定されている(禁止ではない)という面も感じる。行為の期待可能性がある以上、自分で行為しないとだめという道義性の強い物差し。時間とともに徐々に薄れていくのだけども。この物差しのリアル感と接触障壁の低さゆえに、私的な行為が浮き彫りになるようにも。

と後からこじつけてみても、やっぱ、どんなときでも凄い人は凄いなあ、ということだけなのかもしれない。「あの人は普段から偉い人やけど、ほんまに偉い人や」っておばあちゃんがあのとき感心してた人、やっぱ偉い人やったんやないかなあ。