June 7, 2007

「この件は、あなたにお任せします。思うとおりにやってください。」と他人に言われることは、とても気持ちがいいものだと思った。

一方で、家族に同じ事を言われても、それほど嬉しくはないだろうとも思う。仕事とか対外関係の相手方に言われるとこれほど嬉しいのはなぜだろうか。

家族に言われた場合、「そうは言ってもなあ〜」とか、妙な内語が先走る。そんでもって本当に思う通りにはやらない。

でも仕事の相手方にそう言われると、一気にパーッと視界が開けて、そして、燃える。そんでもって本当に思うとおりにやってしまう。

田んぼは、いまちょうど水が張っている。さざなみが揺れ、きらきら光っている。白鷺が二歩、三歩、柔らかい足取り。ちょっと立ち止まって、こっちをじっと見てる。信号待ちの車の窓から、思わず笑った。
夜は、蛙の声が涼しい。

June 8, 2007

昨日、なぜだろうか、と問いつつ答えを探さなかったのは面倒だったから。でも、ちょっとだけ、寝る前に少し考えようか。

ダブルバインド(表面的な言語的な意味と状況的文脈的な意味の齟齬を感じ取って、身動きできなくなるような)に満ちた家族的コミュニケーションにさらされてきた結果、つい、そういう内語が先走り、自己の行動決定に対して抑制的に働くため、家族に言われても嬉しくないのだとか、そいうことではないのだと思う。少なくとも私の場合は、そうではないような気がする。

私は家族との関係では結構満足している(まあ、今までブログとかでほざいてきた文句というのは、頭でこねくり回した自己弁護が大半であって、本音はかなり満足なんだろうなと素で、おいおい)。但し、私の世界を家族に反映させようとは思わない。接点を探そうともしていない。否定的でも肯定的でもなくなんというか自然な感じでそうしている。私が怠慢なのかもしれないが、ごく社会的な関係の共有で満足している。家族同士の社会的役割分担は、嫌いではない、というか、むしろ好きなほうだ。そんなわけで、家族から、「思うとおりに〜」と言われると、社会的に処理しようとしてしまう。まあ、だから、これはある意味、思うとおりにやってしまう、ということに入るのかもしれないが、そんなにわくわくしたりはしない。嬉しくないというか、まあ、普通かな。あ、ここでの、社会的処理というのは、家族を協同組合みたいに扱うという感じ。法の規定と定款、両方参照しつつ。

これが対外的な仕事(他人)との関係となるとどうなるのか。私が体験する(観察する)社会が一気に拡大したような気分になる。高揚する。「思うとおりに〜」といわれた一瞬のうちに、ここぞとばかりに、それまで社会と無関係のまま保留しておいた私の世界を、半ば無意識に社会にくっつけてしまったんだろう。くっつけても私の世界は決して社会そのものにはならないのだろうけど、接続の体験はがっつり残る。だからぱーっと拡がった気がして快感だったんだろうか。接続のための見えない条件がなんかありそうな気がするけど、、、でも、例えば、「あいつがこう言ってくれたら、ぱーっと拡がるかな」ということは予め想像しようもないし、どうしようもなさそう。思ったことというか、こうしようと思っていることを、「いまやってるよ」っていつも言えるような状態に置いておくことくらいの環境整備ぐらいしか条件は思い浮かばんのだけど。やっぱり見えない条件は見えん。ん、想像できる?私はちょっと無理。山とか海とか鳥とか田んぼとかそういうのだと得意なんだけど。

君にとって、家族は安心ベース、家族の外は不安ベース、ただそれだけの話だろ、と言われてしまうと、まあ、そうかもしれないかもとも思う。よくわからくなってきた。だから、こういうのは面倒くさい。眠くなってきた。

夜、雷が凄かった。停電したので、ベランダへ出て、雷を暫らく眺めていた。真横に走る稲光というのを初めて見た。光も音も乱舞していたけれど、蛙の声のテンションは昨日の夜とさほど変化していないようだ。なんてマイペースなんだろ。おまえらも。

お詫び

東京でKDDIADSLだったんですけど、引越しのときに契約解除したら、あっちのブログ(ラブログ)までふっとんでしまいました。サービスの一部を構成していたということをまったく忘却しておりました。まめに保存しておけばよかったと思います。予告なくログを消してしまい、コメントを下さった方、読んでくださった方に申し訳なく思っています。どうもすいませんでした。