つぶやき

なんかブログに書くことを予定するとよさげなことばかり書くことになる。実際よさげなことも多いが、なんだよおと思うこともある。

大学でもっと勉強しておけばよかったとはあまり思わなくなった。そもそも大学のときに勉強に打ち込んでいなかったからだろうと思う。それに、今学ぶことのほうがなんか面白い。良い意味と悪い意味を両方含んでいるinterestingなことが多い。

契約書。。。法学部で解釈学をかじった後に、実際の社会で、契約書を作成したり、雛形を状況に合うように練ったりしていると、いやらしい契約書を作ろうとしている自分をすぐに発見することができる。どちらか一方の立場に立った上で契約書を見たり解釈したり作成したりということは、なかなか法学部では経験できない。それに自分の世界観を少しでもそこに反映させようとするなら、なんかどっと疲れが出るような感じだ。第三者的立場から見ているのとは明らかな違いがあるし、緊張する。

理事長様、理事様。。。田舎の組織、とくに組合では独裁者が現れると難しい場合が多い。例えば、中小企業の協働組合においてはたいてい定款は古いまま。定足数規定も古いまま。だから通常の決議でも、総組合員の過半数の組合員が出席し出席組合員の過半数の議決が必要になってくることが多い。そして数百人を越えるくらいの組織になると、とても定足数を満たせない。だから法や定款に照らせば瑕疵ある決議が常になされているということになる。

会社と異なり、組合の理事長や理事というのは世話人のような位置づけであり、また田舎の場合、日常における相互監視が強く働いていて、皆が知っている世話好きな人が選ばれるから、それほど問題はおこらなかったのだろう。それに、理事や理事長になってからも日常生活レベルにおいて相互監視による抑制が働いており、そう滅茶苦茶はできない。

組合レベルのネットワークもあった。町や村では、細かく部落ごとに支部に分けて保険料納付等手続きのためそれぞれ小さな事務所を置いて連絡の拠点としていた。組合員の加入・脱退により組織の中の人が少しずつ入れ替わっていっても、自分のちかくに住んでいる組合員のことくらいは最低限把握していたし、支部を世話している組合員は他の支部世話人と本部で会うことで情報を共有していた。

しかし、少しずつ状況は変わってきたようだ。都市と同様に田舎でも市町村合併があった。多くの村と町が市に編入された。合併後に、市を単位とした組合になり組織が数百人規模と大きくなる。町や村にあった小さな各支部は廃止され、事務所は一本化される。そういう状況で、組合財産を自己に有利な業者との取引に使用したり、役員報酬を得続けるメリットのみを固持するような理事長が彗星のように現れると組織の自己修復はなかなか難しいと感じる。そのような理事長が、法や(古いままの)定款を、自己否定に等しいようなやり方で利用すると非常にややこしくなる。

役員の半数を抑えられていると機動的に理事会で平理事にすることも難しく、また、古い定款では、役員の解任(または改選)請求について規定をおいていないことが多い。そうすると、組合の種類によって適用される法をみるわけだが、特別決議並みの要件を定款次第で軽減できるというような規定や総組合員の何分の一の署名をなんたらして総会で〜というよう規定があったりする。まず、新たに解任規定を設けたり、要件を緩和しようとしても、定款が古いので、定款変更の要件が非常に厳しくて変更自体が困難。知らない人もいるし知っている人もいるしという状況での署名もなかなか困難だし、定款・法令違反という理由が要る場合があるので、理事長が自己の行為の正当性を強く主張している場合は一般組合員はしり込みしそう。

そして、穏便に話し合いでというそれまでの町や村で通用したやり方の抑制力はそれ程働かず、その不透明性さを逆に指摘されたりする。そしてあろうことか、今までの議会の決議の不当性まで主張したりという段階になると、あの人は変わった人だという諦めに似た雰囲気が流れ出す。この感覚はあれだ。しかし、そのまま放置ということにはならないところがなかなか粘り強い。そしてなんとか自己修復してしまう。どう表現したらよいかわからないが、日常生活のネットワークからはずすというような強力な懲罰的なやり方はほとんど機能しなくなっていても、別の面の地力のネットワークはまだかなり生きている。中世ヨーロッパの紛争処理のやり方の一つに似ているところがある。あんまり詳しく書けない。ただ、定款は古いまま。

もちろん一般論ですよ。