今でも夜は中学生に接する機会がある。家庭においても学校においても、意味を求めて振舞うよう期待される環境の中でも、自発的に密度を持続している中学生は一部確かにいる。ただ、一方で、意味を通じて密度を掴み取るわけでもなく、ただ密度に退避せざるを得ない自らに、つまり、未だ意味に受動的に拘束され続けるしかない自らに、つまり、家庭や学校の線上ではなく並行線上に生きざるを得ない自らに対していらだっている子もいる。こういう子は学校にも家庭にも非常に居辛かったりする。そういう子に対して、周囲には指針を示す者、彼らの話を聞くものはほとんどいない。私もはっきり言ってよくわからん。そういう子に対しては、ねじれの位置を見つけて生きろとか言いたくなるときもあるけど、それを言ったらおしめえよとも思ったりする。その子が属する家庭の状況や学校の状況を見てしまうと、ああ〜すげえやばいスパイラルがおこってて、家庭・学校・本人、三者とも隠しををしないと回っていかないというそんな状況だよこれは。ああーなんだよ〜、なんで夜に、まだかてきょせなあかんのよ。で、なんで俺に感謝するんよ。なんもしてないよ。相手の話を聞いて、相手の動くのを待っている、動いたら自分も動く。ただそれだけ。こういう状況ではそれくらいしかできんなあ。それに、素でテストで一桁の点数を取れる子を私は理解しようもないからな。自分が先に動くと自分もスパイラルにハマるような気がするんよね。卑怯だなあ俺。