ちょっときた

せろはんさんのこめんとにちょっときた。私もそうかも。
長くなるかもなのでここに。

自分が身体的な労働に異常にこだわるのはけっこう少年期からの劣等感を引きずっているからかもしれないなと思った。小学校のころから父親の建設現場に手伝いにいくことがあったけど、ある日建前の餅投げをするとき屋根(といっても枠組みだけだけど)に上がったとたんに目を回して落ちそうになっておじさんにキャッチされた。「大工の息子が情けないなあ」と笑われた。それから、古い工場の解体作業に行ったときも、屋根材(波板)の取り外しにチャレンジしたがはしごの途中で足ががくがく震えて屋根に上がることができなかった。下で廃材をかき集めてトラックに載せる作業しかできなかった。その後は、他の現場でもあまり無理して上に上がろうとしなくなった。自分にできることをやればよいんだと思って無理やり納得させた。

一人前の働きができてないっていうなんというか情けなさみたいなもんは結構ひきずっていて、向いてないんだろうけど、これがまたはた迷惑なことにますますこだわってしまうのである。持てもしないような柱を2・3本まとめて肩に担いでふらふらして、壁にめり込ませてしまって怒られたりと。身体的振る舞い、というか、ある種の身体的苦痛が伴うものが労働なのだという変なこだわりを既に持ってしまっているのかもしれない。結果でなくて過程。効率より自分の快感(or苦痛)優先。非常に迷惑(笑)。

大学入ってのバイト。家庭教師はバイト料もらってはいたのだけど自分の中では趣味という感じだった。相手に悪いのだけど、すいません。真面目にやってないというわけではないです、楽しかったです。あと廃棄物処理の会社でほとんど公的な仕事を貰ってしか成り立たないようなそういう会社の事務で、自分の部屋を割り当てられパソコン作業(ちょっと外に出て説明しに行くこともある)だけなのも同じような感じ。真面目にやってないということではないです。でもちょっとすいません。他方、引越し作業バイト、警備バイト、弁当屋の素材買出し係、これらは迷惑なことに本人は労働している気になっている。すいません、とか全然思わない(笑)。

大学の憲法の講義などで、個人の尊厳に直結する表現の自由自己実現の価値)の大切さは説かれるが、労働権のあたりは労働法マターなのでほとんどスルーされる(熱く何か語ってくれることをちょっと求めているのかもしれない私)。ただ国際法などでは労働というのはかなり人権マターとして説かれる。身近な実感としても、労働(思い込み労働も含めて)こそ個人の尊厳に直結だよと思ったりする。だから法的な議論だけでなく政治的な議論においても非常に射程が広いのだと思う。食っていけるかいけないかという視点を外したらなくなってしまうようなものではなくて、その視点抜きにしてもまだまだ広いと。