ほんと雑感

「盗難頻発により館内に監視カメラを設置しました。映像につきましては皆様のプライヴァシーに注意を払い目的以外の使用はいたしません。」という趣旨の貼紙が図書館に貼られていたとします。どこぞの大学図書館かもしれませんw

そのときはその文の中の「プライヴァシー」という言葉に非常に違和感を覚えたんですよね。でもうまく言葉にできない。この文脈の中の「プライヴァシー」というのは憲法論的なプライヴァシーではすっきり説明できないような気がするんです。それにそういう意味で図書館管理者側も使っていないような気がするし、利用者もそういう意味で捉えているわけではないような気がしたんです。おそらく日本のある社会的基盤(背景?)からの一種の不文律がプライヴァシーの名を借りて、存在感を示しているという感じかなあ。

素朴に考えると、管理者サイドは「撮影した映像の取り扱いのみに責任を負います」ということを表明しているだけだし、利用者サイドは「ああ、そうですか」という感じだと思います。そうすると、そもそも撮影すること自体はどうなのかという問題は飛び越えてます。図書館は公的な空間でそもそも開放されているんだからプライバシーなんてものはないんだよーというのもありえますが、そうだとするなら、その映像を管理者側が不正に利用するのは、そもそもプライヴァシーの問題ではなくなってしまうのではないかということです。そうするとここでのプライヴァシーという言葉はどういう意味かというのが気になります。

どういう意味なんでしょう。

11月17日追記

もう少し書いてみる。プライヴァシーと個人情報保護という問題に関して以前こういうコメントを書いたことがある。(そのブログ先を貼ってよいかどうか迷うので貼らない)

>>個人情報保護法というのはプライバシー保護を目的としたものではない

僕のイメージとしては次のような感じです。
まず出発点ですが、プライバシーのほうは、視点が個人の内心(主観)から出発して、公開したくないと思う情報を、本人がコントロールする権利。個人情報保護は、視点が外側出発して、個人を識別できる情報(個人情報)を、外側にいる行政機関、業者、団体などが取り扱う際の義務。

みたいな感じですが、もし間違っていたら一刀両断にしてください

このような感覚は今でも私はほとんど変わらない。こういう私の感覚からすると、この貼紙に記されている「プライヴァシーに配慮」という言葉は、逆に、プライヴァシーの問題ではないということを示しているように見える。

確かに実際に事が起こればプライヴァシーは問題になり得る。例えば図書館の管理者がその映像を勝手にネット上に流すような行為をした場合(想定しづらいが)、その行為によって侵害される権利は何か。この段階では、賠償の対象となる損害とそれがどのような権利を侵害したことにより発生したのかを明らかにしなければならないので、じゃあその権利ってなんだ?ということになる。肖像権?なら肖像権って何?となってそれはプライヴァシー権の一形態だよということになるとしても、そのプライヴァシーはどの法のどの条文によって保護されているんだ?ということになる。憲法13条だ21条だと諸説いろいろ。さらにプライヴァシーと肖像権は関係ないという考え方もありうる。この辺の混沌を見ていると、そのような感覚がそもそもあんまりなかったからこうなるんではないかとか(悪い意味ではなくて)と思う。裁判という実際的な処理が必要な段階において「プライヴァシー」を被侵害利益と構成することで妥当な結論を導くことができるのならそれ程不自然ではないように感じる。ただ、例の貼紙のような使用法の場合、一抹の惰性を感じてしまうことがある。何と言ってよいやらわからないので何と言ったらよいやらわからない。

また大学図書館というところは非常に微妙。本エントリでも書いた「図書館は公的な空間で開放されているからそもそもプライバシーはないんだよー」という考えは宴のあと事件判決にも矛盾しないと思う。ただ、図書館はパブリックフォーラムではないかもしれないが、表現の自由とその制限という観点から考えることもできるかもしれない。また単純な公私二元論を前提にして基準を分けて考えるといったやりかたもなかなか微妙。大学図書館はどっちだ?ってことになる。そしてまた防犯目的という観点からいうと、これを私的な警察活動に類似な形態として解釈してしまうと自力救済禁止、警察権、施設管理権と大学の自治との関係で私は混乱してしまうからこういうことはあまり考えない。

ということで「プライヴァシー」という言葉の違和感はいつまでたっても自分なりに説明できなかったということで今日はここまで。

あとどう繋がるかどうかはわからないのですが、とても気になっているのが以下のやり取りでLunatic_fringeさんがおっしゃった「リソースが枯渇するリスクに直面する」という点。それまでまったく考えたことがなくとても新鮮でした。それ以来何かを考えるにつけて頭の隅にこびりついています。

# shootan 『

>>制度を支える社会性みたいなものがないところにドンと制度だけ乗せるとどうなるか、という実験場みたいな感じもしますね。

とコメントくださいましたが、アフリカの政治史なんかをちょっとかじると思うんですよね。あまりに社会性(例えば名誉・利益配分の慣習的社会的ネットワーク)と制度(例えば大統領制多党制+経済的構造調整)がかけ離れすぎてさらに前者への依存が強い場合、制度が要求する義務は一応頭で理解できても、感覚的に責任を自覚するというのはなかなか難しいような気がします。日本の官製談合の場合も昔はそうだったのかもしれませんが、政治・行政は本来の機能も営んでいたわけで現在ではかなり責任自覚できるようになったというのは今の政治モデルはそれなりには働いているということかもしれません。これに対して、政治・行政を担う個人を起源とするパトロンクライアント関係の利益配分ネットワークが「政治」のまさに中核機能として作用している場合は、その国にとってあるべき社会構想を実現していくような推進力はどうやって得ることができるのだろうかと。いや、かなりうがった見方をしているかもしれませんが、とりあえず。』

# Lunatic_fringe 『>日本の官製談合の場合も昔はそうだったのかもしれませんが、政治・行政は本来の機能も営んでいたわけで現在ではかなり責任自覚できるようになったというのは今の政治モデルはそれなりには働いているということかもしれません。

そういう制度とそれを支える社会性といった視点で援助もみていきたい気もします。


ただ、18日のコピペにもあるように、従来型のネットワークに依存していたリソースが枯渇する、というリスクに直面する、この問題も小さくないですよね。リソースを捨てたくないから、保守的になる。今の案件についても、微妙にダーティな形成過程があるんですが、ある部分では非常にクリーン。せめぎあってバランスをとっている感じですね。抽象的でわかりにくいかもしれませんが、具体的にかけないものですみません。