やっちまったか

せろはんさんのブログのエントリ
http://d.hatena.ne.jp/serohan/20060902
に次のようにコメントしたのだけど。。。

shootan 『意見というよりは、自分のことを書いてみます。私の場合どちらかというと、中学の慣習的ないじめやエロエロ攻撃から離脱したくて、駅まで自転車9キロこいで電車で40分ほどの高校にしました。その高校は公立ではまあまあの進学校でしたので、親も納得してくれました。最初はちょっとなじめませんでしたが、中学校のあのどうしようもなくやる気をなくさせる惰性的な雰囲気とはちがって、自分でどうにかできる自由度を感じ少し解放された気分になって楽になれました。中学は学校と森が繋がっているような凄い田舎で人数もそれ程多くなくて一夜漬けで一番になれたのでどちらかというと部活しにいっている感じでしたが、高校だと妙に勉強できる人がけっこういて、なんだろうなあこの人たちはすげーなあ〜という感じで自分も勉強しようと思い始めました。進学校では、先生も生徒もある種ドライに受験勉強を肯定していてそれが一つの共通目的になっているんで、中学のような中途半端な粘着な感じがしなくて私にとっては自由度がかえって増したような気がしました。大学はこれまた妙にとびぬけて変さとすごさがミックスしているすげー人がいて、見つけたら友達になって気に入った先生も無理やりお呼びして自主ゼミを作ったり、周囲の環境を自分好みに変えられる自由度はさらに広がったのですが、周囲が豊かでおおらかなで控えめで優しいのに対して自分があまりに俗的無教養な感じがしてちょっと浮きすぎている不安や卑屈感もあったり親族状況生活環境ごたごたしたりで、大学を一旦離脱したりと、求めていた自由度を得てもなかなかうまくいかないもんでした。憧れを求めてその人たちになろうとして自由度はまたしぼんでしまったのかもしれません。数年後に復学して今は自由度と義務感とお金がちょうどよい具合にせめぎあっていてこれがちょうど良いのかもしれないと思っています。

新設の学校は惰性的な習慣もないかわりに、学校が培ってきた雰囲気の良い部分(個人によって異なりますが)もないところから始まるわけで、不確実性への対処という点ではもっとも気を揉むことになるかもしれません。受験に限定すると例えば、上から何番あたりにいれば東大に入れるとか・笑。そんなのは受験予備校の模試診断で掴めばいいだろうと思われるかもしれませんが、リアリティがあるのは、学校で何番くらいにいて、そのあたりにクラスのあの人とこの人がいて、という具体性です。こういうリアリティーがあって初めて、やってやるぜってな感じで実際に行動に移す原動力になることもあるから(逆に振れることもあるが、とにかく行動の起点となるという点でどちらにしても具体性は重要かと)。でも、新しい雰囲気というのはどちらに振れるかわからないけど未知数のパワーも秘めているかも。あ、でも、中学からそのまま半分が上がってくるというのなら、その中学の雰囲気が少しは反映されるかもしれませんね。

以上一学生の無責任な意見です。長ったらしくてすいません。』

で、以前書いた自分のエントリにこんなことが書いてあった。

生徒の中の世界では、学力という物差しよりも、むしろ、恐ろしげな態度を作ったり、面白げな話をしたりして、どうやって他人を引き付けようかという物差しのほうが強いんでないの?と個人的には思う。学力という物差しが幅を利かせているのは生徒の外の世界ですよ。

自分の中では矛盾していることを書いている気はしないのだけど、言葉を見るとなんか矛盾しているよなあ。てめー、学力という物差しが生徒の中でも強く働いていることを肯定しているじゃないかと。そうだなあ。肯定してるなあ、確かに。なんでだろう。