さっきNHKの環境アーカイヴスで、四大公害病ヒ素ミルク、カネミ油症、尼崎公害、アスベストの映像を見たが、そのうち水俣病に関する白黒の映像の中で、猫が注射されて、壁に頭をぶつけたりもがいたりする様が映し出されていた。ところで例の子猫殺しのエッセイなのだけど、例えば、「動物のためを思うことは人間の都合・思い込みという面もある、動物の幸せは一概には言えないけれども、私は一飼い主として、避妊させるより生れた子を殺すほうが、その雌猫のためにはよりましな方法と信ずる、だから、私は子猫殺しを敢行したのである」とすればこれほどまでに文句は言われないような気がするんですが、気のせいですか。

坂東さんは高知新聞社の取材に対して、「私は、子猫を殺しているだけではない。鶏も殺して食べてもいる。ムカデも、蟻(あり)も、蚊も殺している。生きる、という行為の中に、殺しは含まれています。それは、高知の自然の中に生きている人たちにとっては自明の理ではあるでしょうが、都会生活の中では、殺し、という面は巧妙に隠されています。今回のエッセーは、生と死、人にとって、さらには獣にとって生とは何か、という一連の思考の中から出てきたものです」とコメント。

これを見ると、そういう、後ろめたい気持ちの自覚をもって生きるほうが私にとっては自然なのだということを言いたかったのかとも思える。

何らかの後ろめたい気持ち。

むしろ他の生を犠牲・見殺しにして生きていることに対するそういう部分を一度は誰しも感じたことがあり悩んだことがあるから、かえって違和感を抱くのかもしれない。他の生をどう考えるのか、自己の生をどう考え、私たちはどう行動すべきなのかに対するある種割り切った感のあるああいう書き方にかえって反発を抱くのかもしれません。どのような行動をとるにしても重圧を感じさせるようなそんな印象を受けてしまう。子猫殺しのエッセイに対する反応って、けっこうそれぞれの深いところの価値観というか感覚が反映しているような気がします。また、それに関連して別の場面を思い浮かべたりできることも多い。私たちが生活している中でなんとなく曖昧にしている奥深いところのもやもやを、こういうことなんだよって「特定のきっちりした形」で引っ張り出されたことによって、冷静ではいられなくなるのかもしれない。


全然関係ないことを以下書きます。

生は全て大切という一方で、自己や私たちの現状の力量において、両方救うことができない状況で悩んだあげくに片方だけでも救うという行動を取ることが、都合の良い方を助け、都合の悪い方を見殺しにしているダブルスタンダードだと非難されることがあるとしても、究極の場面において、できる限り、現状においてどちらか助けることができるほうをまずは助けようという行動は私から見ると前向きに評価できる場合がある。どちらに行動しても非難されるから何もしないというよりは、ましだという判断をすることがある。これはある意味自然に反すると言えばそうなのかもしれないが。よくわからない。