ちょっとトンデモモデルを考えてみる

「ぱらしゅーと開いてもそもそも着地地点がない」そう感じるときいろいろと状況があるのだけど、その一つはこういうことではないか。

共感できないが理解しようとするとき。それでも、超常的な力で目下の地形に変更を加えることなく、広大な底が知れない海に、自己の頭と身体を使って着地しようとするのは勇気がいることだと思った。

いわゆる「ネタ」というのは準心裡留保の構造であり、意思と表示の不一致を表意者自身がわかっている状態だとするなら、この不一致を理解することで円滑でウィットに富んだコミュニケーションを築くことも可能かもしれない。ただ、感情と意思の不一致と意思と表示の不一致が同時錯綜的な場合は表意者自身が混乱する。ここで、感情を一旦意図的に無にしておき、意思に適合するような感情を創出し、意思と表示の不一致を作出すると「外見的ネタ」ができあがる。

この「外見的ネタ」は、とてもミスリーディングなのだが、意思と表示の不一致の意図的作出が、感情と意思の意図的一致により支えられているという点に特色がある。

感情表現がそのまま素直なものではなく裏返し的なものであっても、とにかくなんらかの感情が読み取れるという範囲であれば、表示を読み解いたり、意思と表示の不一致を推測しつつ理解することに少しは役立つかもしれない。そういう意味で、感情表現は、環境・体験・価値観が大きくかけ離れる者同士が出会うブロゴスフィアにおいては、表示に対する理解を促進することもあるのだと思う。しかし、一旦感情を無にしたところから出来上がってくる手段としての感情表示や、「外見的ネタ」は、相手方からは取り付く島が見当たらない。相互に共感も理解もなかなか困難。そして、一旦意識的に感情を無にすると書いたが、もしこれが継続的になされるなら、自身でもコントロールが効かなくなり、これを無意識的にやってしまうように思える。修正し続けるとだんだん、「考える感情」が自然になってくる(私の頭の中では・笑)。

これはもちろん私自身の経験なので一般化はできません。ただ、孤独になってボロボロになって誰かが乗り込んできてくれないと本当に死ぬかもしれないと思っていたときに、誰かが手を差し伸べてくれて、愛情にひれ伏し馬鹿みたいに思いっきり泣き崩れたときに人間ってものがとても頼りに思えた瞬間、依存するとか自立するとかそんなこと関係なく、相手の感情を受け入れ、自身の感情もある程度受け入れるスタートラインに立てたような気がした。それでも、不安になるとまた修正しようと気になってくることもあるが、なんとかコケながらやるさ。

また改めてそういうことをふと思い出して、やーってやるぜ、という気になりました。そういう切っ掛けを得ることができるのもブログの良いところなのかもしれませんね。感謝します。