公私の区分

憲法とは何か」長谷部恭男(岩波新書)p9〜p10

「…しかし、人間らしい生活を送るためには、各自が大切だと思う価値観・世界観の相違にもかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そうした枠組みが必要である。立憲主義は、こうした社会生活の枠組みとして、近代のヨーロッパに生れた。
そのために立憲主義がまず用意する手立ては、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域とに区分することである。私的な生活領域では、各自がそれぞれの信奉する価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される。他方、公的な領域では、そうした考え方の違いにかかわらず、社会のすべてのメンバーに共通する利益を発見し、それを実現方途を冷静に話し合い、決定することが必要となる。
このように、立憲主義は、多様な考え方を抱く人々の公平な共存をはかるために、生活領域を公と私の二つに区分しようとする。これは、人々に無理を強いる枠組みである。*1自分にとって本当に大切な価値観・世界観であれば、自分や仲間だけではなく、社会全体にそれを押し及ぼそうと考えるのが、むしろ自然であろう。しかし、それを認めると血みどろの紛争を再現することになる。多元化した世界で、自分が本当に大事だと思うことを、政治の仕組みや国家の独占する物理的な力を使って社会全体に押し及ぼそうとすることは、大きな危険を伴う。」

これをもっと俗的日常生活レベルまでずんずんおろしていって、イメージとしての素朴な「公私」の感覚で眺めようとした場合、無理は拡大していくのに、無理を強いる枠組みを使用していることに無自覚になって、なんだかわからないけど居心地が悪いなあと感じてしまい、なんだか分からないうちにポジティヴな自己責任論あるいは回避自体が自己目的化したネガティヴな責任回避的行動へと帰着していくようなことになるとちょっといかんなあと、わが身を振り返り、思うのでした。

*1:強調引用者