だいぶ前にニュースか何かでちらっと見たんだけど。具体的なシチュエーションを演劇して見せて、「こういう場合は嘘をついてよいか悪いか」とか、子どもたちに考えさせる教育企画?のような催し。例えば、友人がバイク乗り回していることを学校の先生に聞かれたときは友人をかばうためには嘘をついてよいかどうかなど。

嘘つき人の私が思うに、嘘はいかんよ、やっぱり。あ、自分のできないことを人に強制はできないけれども、一つの提案?として、そういう教育方法は違うのではないかということは思います。

例の企画を見たときに、「嘘」と「配慮」の境界、そしてその判断基準はなんだ?というようなことが暗示されているような感じがして、とても気になったんです。そんなの自明じゃないかと思ったんですよ。判断基準は自分ですよ。そういうもんは外形的な社会的基準ではなくて、だから学校などで教育的に教えるものではないような気がします。嘘と配慮の境界線なんて自分の中ではほとんど自明であったりします。だから、赦しを求めたり悩んだり葛藤するんじゃないですか。

仮にそのような企画で、先生の側が、良い悪いという価値判断を明示的に与えないようにするとしても、そういう企画をすること自体に違和感をつよく覚えてしまうのは、ちょっとナイーブすぎるのかもしれないけれど、やはり嘘つき人の私だからこそ妙に固執してしまうのかもしれません。

それにしても説得力なさすぎw

つぶやき
つぶやき
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嘘をつくことに何らかの積極的な意義を与えることは、安心感に繋がるのではなくてむしろ痛いのではないかと。苦渋の黙秘をすればそれでなんとかなるときもありますし。嘘つきは、常に赦しを求めていて、赦されようとしてまた嘘をついてしまう、この連続で、だから、赦される瞬間というのは、本当に切羽詰ってしまった状態にしかやってくる可能性はなくて、その機会を得たとしても、その時に、その人の前にいる相手の人がどう対応してくれるかで。。。号泣するくらい救われるのかもしれないし、反対に、非常に危険な状態に陥るかもしれません。当人は自覚できないくらいに実は物悲しくなっていたりするものです。自力では気づけないくらいのところまで行ってしまっていたりします。赦されようとする対象と赦しを求めている対象が一致しているとも限りません。